まだ、接続音がしていた。
まだ、メールを待つ時間があった。

Jmailが生まれた1998年、日本のインターネットは今とはまったく違う場所でした。 速くもなく、安定してもいない。 けれど、そこには確かに未来がありました。

ダイヤルアップ接続、文字化け、個人ホームページ、掲示板、メールアドレス。 Jmailは、その時代の空気の中で生まれました。

1998年、インターネットはまだ「日常」になりきっていませんでした。

現在、インターネットは空気のように存在しています。 スマートフォンを開けば、すぐにつながる。 写真も、動画も、地図も、支払いも、会話も、ほとんど意識せずに使えます。

しかし、1998年のインターネットは、まだ意識して「入る」場所でした。 パソコンを起動し、モデムを動かし、接続を待ち、ブラウザを開く。 その一つひとつに、少し儀式のような感覚がありました。

つながった瞬間、世界が少し広くなる。 けれど、電話代や接続時間が気になる。 ページが表示されるまで待つ。 画像が上から少しずつ現れる。 その遅さも含めて、インターネットでした。

1998年のインターネットは、速い世界ではありませんでした。
けれど、遠くへ行ける世界でした。

接続する

インターネットは、常時接続ではありませんでした。 つなぐ、切る、またつなぐ。 接続そのものが、利用体験の一部でした。

待つ

画像もページもメールも、今よりずっと待ちました。 しかし、その待つ時間が、届いた時の喜びを強くしていました。

覚える

URLやメールアドレスを覚えることに意味がありました。 良いアドレス、面白いドメインは、それだけで記憶に残りました。

メールは、いまよりも少し「手紙」に近いものでした。

1998年のメールは、現在のチャットや通知のような速さとは違いました。 もちろん電子メールは速いものでした。 しかし、利用者の生活の中では、まだ少しだけ手紙のような感覚を残していました。

送る前に文章を書く。 送ったあとに返信を待つ。 受信箱を開いて、新しいメールが届いているか確認する。 その一連の行為には、今の即時通知とは違う時間の流れがありました。

メールアドレスもまた、いまより大切に扱われていました。 誰かに教える。 名刺に書く。 手帳にメモする。 自分のホームページに載せる。 その文字列は、オンライン上の居場所を表していました。

メールは速かった。
でも、待つ気持ちはまだ残っていました。

受信箱

メールを見るためにログインした。

メールは、勝手にスマートフォンへ届くものではありませんでした。 自分で見に行く場所でした。 だから、受信箱には少しだけ部屋のような感覚がありました。

アドレス

文字列に人格があった。

メールアドレスは、単なる認証IDではありませんでした。 そこには名前、好み、冗談、所属感、そして少しの見栄がありました。

日本語でインターネットを使うことには、特別な難しさがありました。

英語だけのインターネットであれば、文字の扱いは比較的単純でした。 しかし、日本語には漢字、ひらがな、カタカナがあり、文字コードの問題がありました。 環境が違えば、同じ文章が正しく表示されないこともありました。

文字化けは、当時の日本のインターネット利用者にとって身近な問題でした。 せっかく書いた日本語が、意味の分からない記号に変わる。 大切な文章が読めない。 それは単なる不便ではなく、コミュニケーションそのものの失敗でした。

Jmailが日本語に対応する必要があったのは、そのためです。 日本で使われるメールサービスである以上、日本語が正しく読めること、 書けること、壊れないことは、サービスの根本でした。

日本語が守れなければ、日本のメールサービスにはなれませんでした。

文字化け

言葉が記号になる恐怖

日本語が壊れると、メールは届いても意味が届きません。 文字化けは、技術問題であると同時に、信頼の問題でした。

環境差

人によって見え方が違った

パソコン、ブラウザ、メールソフト、サーバー。 それぞれの違いが、日本語表示の安定性に影響しました。

バイリンガル

英語と日本語をつなぐ

Jmailは、日本語だけでも英語だけでもない場所を目指しました。 それは、日本の初期インターネットらしい挑戦でした。

人は、まだ小さなホームページを作っていました。

1998年のインターネットには、個人ホームページの文化がありました。 自分でHTMLを書き、背景色を選び、画像を置き、リンク集を作り、 掲示板を置き、訪問者数を数える。

そこには、現在の巨大プラットフォームとは違う手作り感がありました。 見た目は整っていないかもしれない。 読み込みは遅いかもしれない。 でも、そのページには作った人の手が見えました。

メールアドレスは、その個人ホームページと強く結びついていました。 「ご感想はこちらへ」 「メールください」 「リンク歓迎」 そうした言葉と一緒に、メールアドレスが置かれていました。

Jmailのアドレスは、そのような場所にも使われたはずです。 個人ページ、趣味のページ、友人への連絡、学校や仕事のやり取り。 そこには、今では見えにくくなった小さなインターネット生活がありました。

ホームページ

自分の場所を作る時代

個人ホームページは、今のプロフィールページよりも不器用で、自由で、 作り手の性格がそのまま出る場所でした。

掲示板

小さな会話の場所

掲示板には、訪問者の言葉が残りました。 メールと掲示板は、初期インターネットの大切な会話の道具でした。

無料でメールアドレスを持つことは、新しい自由でした。

プロバイダから与えられるメールアドレスではなく、自分で選ぶメールアドレス。 会社や学校に縛られないメールアドレス。 場所が変わっても使えるメールアドレス。

無料ウェブメールには、そうした自由がありました。 もちろん、無料であることには難しさもありました。 サーバー費用、運営費、広告収入、利用者対応。 無料サービスは、便利である一方で、運営側には大きな負荷がありました。

Jmailは、その自由と負荷の両方を抱えていました。 利用者にとっては、自分で選べるメールアドレス。 運営側にとっては、増え続けるメールボックスと責任。

無料メールは、利用者に自由を与えました。
同時に、運営者に重い責任を与えました。

自由

プロバイダから離れる

プロバイダのメールアドレスだけではなく、自分で選ぶアドレスを持てることは、 当時の利用者にとって新しい自由でした。

移動

どこからでも使う

ウェブメールは、特定のパソコンやメールソフトだけに縛られない可能性を持っていました。 それは大きな変化でした。

責任

預かるということ

メールを預かることは、日常を預かることでした。 だからこそ、守りきれなかったことは重い責任として残ります。

Jmailは、この未完成な時代に合っていました。

1998年のインターネットは、完全な場所ではありませんでした。 遅く、不安定で、分かりにくく、文字化けも起きる。 でも、その未完成さの中に、作る余地がありました。

Jmailは、その余地から生まれました。 無料メール。 日本語対応。 複数の .co.jp ドメイン。 自分らしいメールアドレス。 それは、未完成な時代だからこそ成立した発想でもありました。

現在の巨大なメールサービスやSNSの中では、Jmailのような小さな発想は埋もれてしまうかもしれません。 しかし、当時は違いました。 インターネットはまだ広く、空いていて、誰かが新しい看板を立てる余地がありました。

Jmailは、その空き地に立てた看板のひとつでした。

便利になる前のインターネットを、利用者の皆さまが支えてくださいました。

Jmailが生まれた時代は、すべてが簡単ではありませんでした。 それでも利用者の皆さまは、アドレスを作り、ログインし、メールを送り、返信を待ち、 Jmailを日常の一部にしてくださいました。

その信頼を最後まで守りきれなかったことを、心からお詫びします。

1998年のインターネットを語ることは、懐かしむことだけではありません。 その時代に預けられた信頼を、今あらためて思い出すことでもあります。

Bradley L. Bartz Jmail.co.jp 創業者 Internet Access Center K.K.

この背景にある本

Jmailが生まれた時代は、『Japan.co.jp — Hardhat Required』に記録されています。

本の第16章「The Jmail Phoenix」には、 Jmailがどのように生まれ、無料メールサービスとして立ち上がったのかが記されています。 その背景には、日本の初期インターネット、事業の崩壊、再起、そして利用者への責任があります。

このサイトは、その物語を誇るだけではありません。 Jmailを使ってくださった皆さまへ、まず謝罪を置き、そのうえで記録を残すための場所です。

起業の物語を読む
Bradley Lawrence Bartz 著『Japan.co.jp — Hardhat Required』表紙

仕組み

Jmailとは

Jmailがどのようなメールサービスだったのかを説明します。

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自分らしさ

メールアドレスと自分らしさ

ソーシャルメディア以前のインターネット・アイデンティティを記録します。

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謝罪

ごめんなさい

Jmailを使ってくださった皆さまへの謝罪文です。

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